課題 >> 14. 「結婚生活を維持する」 を読んでください。

結婚生活を維持する

結婚生活を円満なものとするのに欠かせない要素として、夫婦間における高いレベルのコミュニケーションがあります。 夫婦の関係が緊張感を帯びてきても、その結婚生活でのオバートとウィズホールドを取り去れば、再び元に戻すことができるでしょう。

結婚生活とは、フライパンがいくつか飛び交うこともなく、うまく行くものだと信じるべきではありません。そうなるだろうと信じているあなたは、完璧主義者なのでしょう。 そして、それが一夜にしてすべて元の鞘(さや)に収まるなどと考えてはいけません。というのは、数々のオバートとウィズホールドを列挙するには、それより少し時間がかかるからです。

結婚は、2方向のコミュニケーションなしで存続することは不可能です。 またそれに関係する人々が、それが存続するようにポスチュレートし続けなければ、それは存続することはできません。 これらのことを行うことで、結婚生活を維持できるのです。

つまり結婚とは、オバート行為もウィズホールドもない状態で人々の間につながりをつくり出すことであり、それは存続するようにポスチュレートされ、そのメンバーとグループを相互に永続させ相互に保護するように続けられるものです。

それは実際、全く単純な取り決めであり、また単純であり続ければ、とても満足の行く取り決めということになります。けれども、そのように続かない場合には、とても複雑な取り決めとなります。

さて、結婚生活を常にだめにする人々は、姑(しゅうとめ)ではありません。 ぶっきらぼうに、こう言うこともできます。「姑たちをみな撃ち殺すか何かするべきだ。そうすれば私たちは自由な結婚生活が送れる。そうなったら素晴らしい。」 または、「女性の参政権(女性が投票する権利)があれば結婚はうまく行くだろう。あるいは完全な解放がなされ即座に離婚ができるようになれば、結婚はうまく行くだろう」などなど。

あなたは結婚生活を実際に持つことなく、結婚生活を保とうとする努力という、社会的な、無意味なばんそう膏をたくさん見付けることができます。 こういったもので本当に結婚を成り立たせていたことなど今までにありません。すぐ離婚することになったり、あれやこれやが起こらないようにするだけのことです。

中国人はこの反対です。結婚というものはあります。しかし、実際の結婚生活はありません。というのは、夫の家族の最年長者がいまだに家族の長であり続け、妻はいまだに夫の母親に仕えているからです。すべてが実にややこしいのです。

私たちは、一連の規則やそうした類いのものに取り囲まれています。 その家族、つまりそのグループの間に自由なコミュニケーションがあれば、どのような規則に囲まれていようと構いません。 また、そのグループのメンバーの間に自由なコミュニケーションがあれば、彼らの親愛の情は人生におけるショックや打撃に耐えられるほど高いものになります。それに、人生とは時にいくらかのショックや打撃をもたらすものなのです。

その家族に関係する人たちが自立していない場合、とにかくそれらのショックは辛いものになることがあります。 その人が何かを行い、どうやらその人は何かが自分にされたと考えるようです。そしてその人は成功しようと頑張りますが、できません。 しかし、自立して、また相互扶助の原理に従って物事を行っていれば、人はひとりでいる時よりもずっと大きな成功のチャンスに恵まれます。 これが結婚生活を送る際に基盤となる、基本的な考え方のひとつです。

もちろん、仮に結婚が存在しなかったとしたら、幼い子供がうまくやっていくことは決してないでしょうし、私たちの誰もうまくやっていくことは決してなかったでしょう。 家族の関係とその成長という生物学的なパターンが、人類を存続させてきたものだからです。

とはいえ、結婚を存続させることはできます。 どれだけ緊張感を帯びたものであろうと、結婚生活を再び元の状態に戻すことはできるのです。

1. 何かについての結論、決断、決意のこと。 2. 何かについてのポスチュレートを抱くことで、それを起こす、あるいはそれが存在するようにすること。

グループの道徳の規律に反した有害な行為や違反行為。 オバート行為とは、誰かまたは何かを傷付けるということだけではなく、最少数の人々または人生の領域に最小の善をもたらす作為または不作為、最多数の人々または人生の領域に最大の害をもたらす「作為」または「不作為」のことである。

投票する権利。特に選挙における投票の権利を指す。

誰かを自由にしたり、誰かを束縛から解き放つ行為や過程。

傷口を保護するためにはるもの。 ここでは比喩的に用いられている。

愛、好意、その他のあらゆる感情的な態度のこと。好意の度合い。 親愛の情の基本的な定義は、良きにせよ、悪しきにせよ、相手との距離に対する感じ方である。